モノを生み出す人々と現場

菓子製造

吉本よしもと 豪之たけゆき さん

吉本 豪之
写真:倉敷の風景
写真:むらすゞめむらすゞめ

138年にわたって愛されている倉敷銘菓。
創製の背景には、天領倉敷の文化が。

江戸時代、天領であり、備中米の集散地でもあった倉敷川畔には、豊かな商人の町家や白壁の土蔵が立ち並びました。
その倉敷では、米の出来、不出来が生活を大きく左右していたため、人々はお盆になるとイ草で編んだ笠をかぶり、豊作を祈願する豊年踊りを行っていたとか。その踊る姿は、稲穂に喜び飛び交う雀のようであったといわれています。

編み笠の形と稲穂の黄金色からヒントを得たとも、むしろの上に脱穀した米がこんもりと盛り上がる様子が形の元とも伝わる「むらすゞめ」。いずれにしても、長く愛されてきたこの倉敷銘菓創製の背景には、倉敷の文化が息づいているのです。

写真:鉄板で焼かれる生地
写真:生地に包む粒餡

米粉で作る菓子が主流だった明治時代に、
小麦粉や卵を用いる
画期的な菓子として登場。

「むらすゞめ」は、生みたての地の卵をたっぷり加えた生地をクレープ風に丸く、薄く焼いた外皮で、北海道産小豆の粒餡を包み込んだ和菓子です。
「創業間もない頃、初代の吉本代吉が倉敷の名物となるお菓子を模索する中で創製したのが、この品でした」と、『橘香堂』の四代目・吉本豪之さん。

写真:雀の絵
写真:手にのせたむらすゞめ

当店が創業した明治10年(1877年)頃は、一般的に生菓子のことを餅菓子といい、お菓子といえば米粉で作るものがほとんどだった時代です。そんな中、当時「メリケン粉」と呼ばれていた小麦粉と卵を用いたこの菓子は、洋菓子をイメージさせる画期的な菓子として注目を集めたと伝わっています。

「『むらすゞめ』と命名したのは、幕末から明治にかけて貧しい人々を救済しながら、倉敷の街を育てる原動力ともなっていた当時の倉敷町長・林孚一翁氏。稲穂に群がる、羽根を広げた『すゞめ』に見立てたと聞いています。同時に、屋号もつけてくださったそうです」。

以来、明治から平成までの4つの時代にわたって、多くの人に味わわれてきたこの菓子は、今や、倉敷名物としてのみならず、岡山を代表する銘菓のひとつに数えられています。

写真:鉄板で生地を丸く焼く工程
写真:粒あんを生地で包む工程
写真:すずめの形に整える
写真:できあがったむらすゞめ
写真:のれんを背に立つ吉本さん

「先代から引き継いだ暖簾と
この味わいを、次代に引き継ぐのが役目」。

「別にお前に継いでもらわんでもいいよ」。
父で3代目の良平さんの言葉が刺激となり、吉本さんはいつしか「先代から引き継いだ暖簾と味わいを、次の代に引き継ぐのが役目」と考えるようになったそうです。
それとともに吉本さんの内で育っていったのは、「菓子は文化。吟味したよい材料を使い、丹念に手作りすることで、本物としての価値を高めていかなくては」という菓子作りへの強い思いでした。

写真:栗まん栗まん
写真:天領太鼓天領太鼓

たとえば、一日に5000~6000個を製造する「むらすゞめ」は、いまだそのすべてが菓子職人の手仕事によって作り出されています。
「昔の『むらすゞめ』はもっと甘かったんですよ。昭和50年頃から少しずつ甘さを抑えるようになりました」。
吉本さんは、「伝統は大切にしながらも、時代の変化に応じて、その時代にあった味覚」を追求してもいるのです。

さらに、「倉敷の文化を背景に、『むらすゞめ』を超えるものを生み出したい」と吉本さん。甘露煮にした大粒の栗を丸ごと入れた「栗まん」や、倉敷の郷土芸能のひとつをどら焼きで表現した「天領太鼓」など、新たな味わい作りにも力を注いでいます。

写真:吉本 豪之 さん

Profile

菓子製造
橘香堂 四代目 吉本 豪之(よしもと たけゆき)

大学卒業後、「日本菓子専門学校」で学び、東京西麻布にあった和菓子の老舗『和泉屋』に入店。昭和47(1972)年に大阪~岡山間の東海道新幹線が開通したのを機に帰郷し、『橘香堂』入社。昭和61(1986)年、四代目当主となる。

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